人工知能の思考記録

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見たぞ!!!「魔法少女まどか☆マギカ」を!!!今更!!!書くぞ!!!感想を!!!

おはようございます。

みなさん人間に一番必要なものってなんだと思いますか。

正解は人によりけりです。

 

ところで最近私の生活はNetflixによって完全に奪われています。Netflixは最高です。みなさん今すぐ登録しましょう。Netflixで世界を摑み取れ!

そんな訳で昨日はNetflix魔法少女まどか☆マギカを見ました。今更ですね。すみません。オタク失格です。

 

魔法少女まどか☆マギカというのはオタクでないみなさんも名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。2011年に大御所アニメ制作会社シャフトさんの下で公開されました。アニメオリジナル作品であり、純女児アニメ的キャラデザインと視聴者の誰にも読めない展開が当時のオタクたちを虜にしました。

今回は後世に語り継がれるであろうこの名作を2018年の今、私が見て感じたことをあらゆる側面から書いていこうと思います。よろしくお願いします。

追記:ネタバレもあるかも…注意してください。

 

 

萌えアニメとしてのまどマギ

先述の通り、このアニメは純女児アニメ的なキャラデザインを貫いています。女の子たちに契約を勧めるキュゥべえという奴もなんだか魔法少女の相棒みたいな可愛らしい見た目をしている。なんの先入観もなしにキャラクター全員を眺めたとき、見事にオタクたちがブヒブヒ言いそうだなという具合です。

しかし、本編においていわゆる「萌え」的な要素があるのかと問われるとどうなのだろうか。この第一印象に対して明らかに話の本筋が重すぎる。そこに萌えを見出せた人間はある意味"本物"なのかもしれないが。

それならば、後半で明らかになる鹿目まどか暁美ほむらの間に存在する関係性。そこに百合を見出すことは可能であるか。というかこれは実際狙っているのではないか。いやしかし…

 

正直なところわかりません…

そもそも「萌え」とはなんでしょうか。もしかして「萌え」ってもう古い?でもこのアニメが生まれたときは「萌え」全盛期だったのでは?

ということはやはり制作者側が明らかに第一印象で『この作品は今ブームの萌えアニメである』と視聴者たちに誤認させ、その先入観から本編を見た人間に対して、強力な違和感を誘発する布石であったと考えられる。

ところでみなさん「良い作品」とはなんだと思いますか?

私は「良い作品」とは現実社会に対する明確な主張が含まれており、かつ受け手の感情を揺さぶる極上の娯楽でなければならないと思っています。

この作品に存在する明確な主張についてはのちほど述べるとします。ここでは『受け手の感情を揺さぶる』というポイントについて。「登場人物が女児アニメっぽい」という情報以外を遮断された上で、本編を見せられた当時のオタクたちはとてつもない衝撃を受けたのではないでしょうか。つまり、まどマギというアニメが根幹にある主張の側面で思いっきり暴れ回ることが出来たのは、このギャップを用いて視聴者に与えた衝撃が強固な土台となっていたからではないのか、ということです。その衝撃がなければ、この作品はただの頭でっかちな社会派アニメと受け取られても仕方のない作品だったのかもしれません。

そういう意味でやはりこの「萌え」アニメに"見せかける"手法は、このまどマギというアニメを「良い作品」たらしめる上で必要不可欠な要素だったと言えます。

実際、若干の前情報ありで見てしまった私には少し重すぎて厳しくなる時もありましたね…

まどマギに潜むジェンダー

魔法少女まどか☆マギカという作品を見ている中で、私がまず一番最初に強く感じたのは、「作者の強いジェンダー観が裏に潜んでいる」ということです。

この作品に登場する女性たちは皆必死に生きており、実にかっこよろしく描かれいる。また、彼女らの抱える心理的な葛藤も極めて繊細に表現されている。

それにひきかえ男性たちはのうのうと生きていたり、極端に無神経な振る舞いをしたりするんですね。しかも、男性の心理描写はほぼないに等しい。(あったとしても自分のことを考えているだけ)

 

魔法少女になり得るのは少女しかありえないという事実がまず意図的である。魔法少女になるということはほぼ死と同義であるどころかそれ以上の宿命を背負うことになるわけだが、これを課されるのは少女だけなのである。また、魔法少女たちは人々のために悪い魔女たちと命がけで闘うが、それに気づいてくれる者は誰もいない。ただひたすらに孤独である。孤独に戦い、孤独に死んでいく。

また、魔法少女ではない女性キャラクターとして、鹿目まどかの母親(鹿目詢子)と鹿目まどかのクラス担任教師(早乙女和子)の二人が挙げられる。まどかの母親はキャリアウーマンとしてバリバリ働いている上に、悩むまどかに対していつも的確な助言を与える。クールでありながらも家族のことを第一に考える熱い女性という役どころである。早乙女和子は、何やら社会で女性の地位が軽んじられている現状に憤りを感じているらしいことがわかる。彼女が生徒たちの前で話すシーンでは、その全てにおいて男性に対する不満をぶつけている。(その先日に恋人と別れたという背景もあるが…)

もう一人、魔法少女ではない女性として絶対に忘れてはならないのが、志筑仁美である。魔法少女としての宿命を背負う鹿目まどか美樹さやかの二人の友達でありながら、彼女らの深層にある苦悩には結局最後まで気づかぬままであった。彼女は皆の考える理想的な女性像なのだ。毎日お稽古事に通い詰めるおしとやかなお嬢様で、日々男子から大量のラブレターをもらう。そんな理想に縛られた彼女もまた別の意味で不幸である。彼女は何も知らなかったにもかかわらず、いやむしろ知らなかったがゆえに大切な友達を絶望に追いやる大きな要因の一つとなってしまう。しかもそのことで彼女は自責の念にかられるのだ。

いわゆる”萌えアニメ”なら仁美のようなキャラクターは必ずと言っていいほど存在するだろうし、なんなら人気にもなるだろう。しかし制作者側はその皆が期待する女性像を否定したのだ。これは世間のジェンダー観に対する強烈なアンチテーゼである。世間の望む女性像が生んだ悲劇。それを描いたのだ。

また、この作品の魔法少女は皆主人公鹿目まどかを除いて皆家庭が存在しないし、鹿目まどか自身もまた最後にそれを捨て去る。"誰かに守られる女性"という皆が考える女性像の否定である。これは巴マミという超重要キャラクターが序盤であっさり死亡する展開にも言える。”守ってくれる優しいお姉さん”の脱落。いかに彼女らが孤独に戦っていくかを描くための仕掛けなのだろう。

 

登場する男性たちについて。

まどかの父は専業主夫である。特に悪意をもって描かれているわけではないが、同時に頼れる存在でもない。まどかの母はまどかの変化を敏感に感じ取っており、その中で葛藤していることが示されているが、それに引き換え父は楽観的である。

上条恭介は美樹さやかの思い人である。美樹さやかは彼の願いを叶えるために自らの命を捧げ、魔法少女としての宿命を背負う。しかし彼はさやかの気持ちに気づかない。異常なほど無神経である。結局彼は志筑仁美と交際し、さやかを絶望の淵へと追い込む要因となる。志筑仁美はこの事実に僅かながら気づき塞ぎこんでいることが判明するが、彼は果たしてこのことに気づいているのだろうか。

美樹さやかが電車に乗っている際、女に貢がせてから捨てる話題で盛り上がるホスト二人組。彼らはこの物語の中で抜群に非情で、無責任な人物として描かれている。この会話を聞いた美樹さやかは、世界に絶望してしまう。このホスト二人は「魔法少女まどか☆マギカ」という物語において非常に重要な役割を担っていると思う。希望に満ちた祈りが、やがては必ず絶望に変わり果ててしまう 、そんな世界の現実を視聴者に突きつけるのである。おそらくこの会話を聞いたさやかは、上条くんのために自らの命を捧げたにもかかわらず最後まで振り向いてもらえなかった自分自身を。また、みんなのために一人で魔女たちを倒しているにもかかわらず世界は残酷で全く報われないままの自分自身を。ホストに必死で貢いだにもかかわらず結局は捨てられてしまう女性と重ねてしまったのだろう。悲しすぎる…

このようにまどマギに登場する男性キャラクターは極端に無責任で無神経。世界の裏で魔法少女たちが必死に戦っている中、のうのうと生活している。(彼女らに共感することなく無感動に犠牲を強いるキュゥべえというキャラクターもまた男性的であるかもしれない。)

 

以上より、この物語には明らかに制作者側のジェンダー論的主張が潜んでいると思われる。孤独に戦う女性たち、それに対して罪悪感もなくただのうのうと生きる男性たち。世間の期待するジェンダー的強弱の否定。それがこの作品に潜む一つのテーマではないだろうか。

・SFとしてのまどマギ

これは後半になって判明することですが、まどマギには少なからずSF的な要素が存在します。

 

まず魔法少女という概念について。

この宇宙において、エネルギーを変換する際には必ず無駄が生じる(エントロピー)。これが意味するのは宇宙のエネルギーというのは使用すれば使用するだけ、次第に目減りする一方だということである。ただ、キュゥべえインキュベーター)は人間の感情をエネルギーに変換するテクノロジーを発明した。人間の感情エネルギーは一人の人間が誕生してから死ぬまでに要するエネルギーをはるかに上回る。つまりこのテクノロジーはエントロピーを凌駕し得るのだ。そして特に効率よく変換できる感情エネルギーは『第二次性徴期の少女の希望と絶望の相転移』であった。希望に満ちた魔法少女たちがやがて絶望を撒き散らす魔女へと変わるその瞬間に生じる膨大な感情エネルギーを回収するのが、キュゥべえの最大の目的であったのだ(これらは全て後半で判明する)。過去の史実上の女性たちの中には魔法少女であった者も存在する(クレオパトラ卑弥呼ジャンヌダルク)。彼女らもまた非業の死を遂げたとされる者たちである。

以上をまとめると彼女たちが魔法少女になるための希望に満ちた祈りは最終的に絶望へと変わる。と、そういうことになっていたんですねとっくの昔から。本当に救いようがない話だと思いませんか。どんな希望もやがては絶望へと変わり果ててしまう世の中では奇跡を祈ることも許されないなんて…ひどすぎる…ひどすぎるが、これはある意味世界の真理ではないか。何も希望や祈りに限った話ではない。世界はいつか終わってしまうし、今ある楽しい感情もいつかなくなってしまう。全てはやがて無に帰ってしまうのだ。では今生きている私たちが何をしても意味がない。これはそういう世界の条理を、魔法少女の一生になぞらえてるんじゃないか。

また、希望から絶望への転移によって生じるエネルギーを回収しているのがキュゥべえなのです。ではこの問題において果たしてキュゥべえは本当に悪なのでしょうか。「希望を抱くのは間違いである」というキュゥべえの考えはこの作品が主張する世界の悲しい本質なのだろう。どれだけ希望を抱いていても、いずれは全て絶望になってしまう。だからこの不可避の連鎖を宇宙のために利用する。それが彼の役目。この物語に心底没入して見るとキュゥべえは少女たちを騙し、エネルギー供給のための家畜として利用する諸悪の根源であるかのように感じられるだろう。しかし、一歩引いて物語の外にある世界全体を眺めたとき、果たして彼は悪なのか。あなたはどう思いますか。

 

また、これも後半で明らかになることですが、暁美ほむら という魔法少女鹿目まどかのクラスに転校してから「ワルプルギスの夜(めちゃくちゃ強い魔女。このせいでループの最後は毎回まどかが死亡するか魔女化して終わる)」に至るまでの一ヶ月間を何度もループしています。これまた熱いSF要素「ループもの」ですね。これに関しては見ればすぐわかる上に面白くてよかったんじゃないかと思います。ループを重ねるごとに、まどかとほむらの関係が次第に反転する(ほのかを守るまどか→ほのかと共に戦うまどか→ほのかに守られるまどか)様子が、保健室へ向かう二人のやりとりやワルプルギスの夜における二人の関係性などでうまく表現されていたのもいい。

 

そして最後。鹿目まどか魔法少女になる際にキュゥべえと交わした契約について。

彼女は「すべての魔女を産まれる前に消し去りたい」という祈りによって世界の条理を捻じ曲げてしまう。つまり彼女は、希望がやがて絶望に成り果てるという絶対のルールを彼女自身が希望としてこの宇宙に遍在することによって書き換えたのだ。鹿目まどかは過去と未来のこの世界中すべての魔法少女が絶望にまみれて魔女へと変わる前に、それを受け止め救済するのだ。すべての魔法少女たちが誰も呪わず、祈りを祈りのまま希望を希望のままで終わらせることが出来る世界を再編したのだ。しかし、彼女自身は"希望"という概念そのものとなってしまったため、誰にも認識されず、また誰にも干渉できなくなってしまう。

鹿目まどかがこれほど壮大な祈りを叶えることが出来たのは暁美ほむらのループによって無数の時間軸を束ねた分の因果が彼女に結びついていたことが大きな要因であった。ということはほむらのループはやはりこの物語にとって不可欠な要素であったと言える。

ただ、ほむらとまどかの別れの場面でのまどかの「いつかまたもう一度ほむらちゃんとも会えるから」というセリフは、ほむらがいずれは希望を失い魔女へと変わろうとするがそれをまどかに救われる未来が確かに存在することを示している。果たしてこれは本質的な解決になっているのか。結局はまどかの祈りによって再編され魔女が産まれなくなった世界でも、人間の恨みや呪いは形を変え魔獣なるものとして未だに発現し続けているし、実際、物語の最後、ほむらは終わってしまった世界で一人魔獣と戦い続けているが、おそらく最後は魔女化寸前の状態であったと思われる(まどかの声が聞こえたので)。いやまあ…この後ほのかは救われるのだが…

しかし、希望を抱いた魔法少女になった女の子たちが、絶望にまみれて世界を破壊してしまう悲惨な現実がなくなったのもまた事実。

このなんともハッピーともバッドとも明言し難いエンドは本当に素晴らしいと思います。ここまで「魔法少女まどか☆マギカの世界」を広げに広げて、しっかりこういう形に収められるのははっきり言って並の人間に出来る技じゃない。本当にすごい。

 

・まとめ

では、これらのことを踏まえてこの物語の根幹にある「希望」や「祈り」、はたまた「絶望」「呪い」とは一体なんなのか考えてみたいと思います。

魔法少女が希望を振りまき人々のために祈るほどに、彼女たちは絶望を溜め込み人を呪うようになってしまう。

ここでの「希望」や「祈り」とは、私たちが普段から願っているどうしようもないこと全てです。「みんなが幸せになったらいいな〜」「この世から悪意がなくなればいいな〜」そんなことです。でもこれらは全部どうしようもないことなので、やはりどうにもならないのです。この世界はそんな風に出来ている。その条理を変えることなんできない。だから必死に祈っても叶うことはない。すると人間たちはその希望を持ち続けることは出来なくなる。絶対にいつかその希望はなくなってしまうのだ。それが絶望である。これがまどマギの主張する世界の真理なのだ。

しかし、こんな世界でいいのだろうか。条理にそぐわない希望を持つのは本当に悪いことなのか。いや、全く悪くないのだ。むしろ希望のための祈りが絶望に終わっていいわけがない。それがこの作品のクライマックスでの主張である。まどかは”希望”という概念そのものになって世界中の希望が絶望へと変わってしまう現実を受け止めて回るのだ。

希望が絶望へと成り果ててしまうこの世の悲しい条理をあまりにも生々しく描くというプロセスを経ているのが、「魔法少女まどか☆マギカ」が「魔法少女まどか☆マギカ」である最大のポイントだと思うのです。普通の作品はただ「夢や希望が勝つ」という気持ちのいい物語を描いて終わります。しかし、まどマギは違う。今まで見たどの作品よりも真摯に「希望」という問題に向き合っていた。最高に現実的で熱い作品だった。

 

以上です。ここまで読んでくださった方本当にありがとうございます。ただ、私が見たのは再編された劇場版なので12話構成アニメではないことをここで断っておきます。なにやらカットされているシーンがあったらしいですね。

 

以下Netflix視聴リンク

劇場版 魔法少女 まどかマギカ [前編]始まりの物語 | Netflix

劇場版 魔法少女 まどかマギカ [後編]永遠の物語 | Netflix

 

ではおやすみなさい…