人工知能の思考記録

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文章を書くということ

最近、文章を書くのが怖い。なぜだろうか。

 

今、私は安部公房の短編集と、マルキ・ド・サド悪徳の栄え澁澤龍彦 訳)を同時進行で読んでいる。

まず、安部公房について。彼の小説は非常に珍奇で、どこに核心があるのかいまいちつかみどころがない。それでも、なんとなく彼の文章における、間合いというか、呼吸というか、そんな雰囲気だけは感じ取れるようになってきた。一度にたくさんの作品を読める短編集の良さである。ここまでいくつかの短編を読んで、安部公房は少し私に似ているんじゃないかな、と思い始めた。基本的に彼の描く世界は一様にどこか狂っているのだが、その狂気の歯車が、私の趣向と完璧に合致している気がする。

 

悪徳の栄えについて、これは単純明快、「人間は自己の欲求の赴くままに行動することこそが正解である」という主張を数百ページにも及んで演説しているものだ。ただ、「単純明快」と言ったが、そこに技巧がない訳では決してなく、むしろ、たった一つのテーマをこの世に存在する全ての創作物を凌駕し得る深さで言及してみせる底力がそこにはある。また、そのどうしようもないパワーこそがこの作品の読者を惹きつける一種のカリスマ性となっているのだ。

 

自分以外の人間が書いた文章を読んでいる時、「こんな文章、絶対自分では思いつかないだろうな……」という諦観にも似た感情が引き摺り出されることがある。仮にも文章を書いている者として、どうしようもない敗者の烙印を押された気分になる。

 

文章を書くということ、ひいては、創作をするということは、常にこの感情との勝負なのだろう。私の文章が、安部公房マルキ・ド・サドを刺せるようになる日が来てほしい、そう願ってやまないのです。